電車の中での話
けっこう混んでいて僕は座席の前に立って本を読んでいた。
隣には80代と思われる女性。
僕らの前に座っているのは中学生と思われる女の子3人組。
ギャルっぽい感じではなくごく普通のいい子な感じ。
おしゃべりに夢中だ。
隣の老婆はつらそうな表情を浮かべている。
3駅分ずっと考えていた。
女の子たちに、おばあさんに席を譲ったら、と言ってみることを。
しかし、女の子たちからしてみたら私たち楽しくおしゃべりしているだけなのになんで突然知らないおっさんにそんな事言われなくちゃいけないのよ、ということになるだろう。
それ、おっさんの押しつけじゃね?と取られてもおかしくないし、実際そうかもしれない。
周囲の人たちに見られて彼女たちの尊厳を傷つけるかもしれない。
そうなるとやっかいだ。
老婆も自分から発信していないのにそういったやりとりの中心になる事は望まないだろう。
う〜む。
しかし、
「ねー、おばあさんつらそうだからさ、席変わってあげたら」
と真ん中に座っている女の子の耳元で周囲に聞こえないくらいの大きさで思わず言ってしまった。
女の子たちはおしゃべりをやめた。
そして、怒っているような悲しんでるような顔でそれぞれ困惑しはじめた。
立つ気配はない。
そのまま1駅分が過ぎた。
僕は本を読むふりをして彼女たちの様子をうかがっていたがずっとそんな調子だったので、僕がいる事で行動に移せない(大人に言われた通りにする私たちじゃないぜ!的な)のかもしれないと思い、隣の車両に移った。
なのでその後彼女たちにが席を譲ったのかどうかわからない。
自分の行動が正しかったのかもわからない。
昨日、視覚障害者のおっさんと2人で温泉旅行に行ったのだが、電車で移動中、彼は前に座っていた人に席を譲られた。
しかし、後で僕に、
「電車の中で白杖持って席の前立っているとみんな譲ってくれるけど、おれ目が見えないだけで足悪くないから別にいらねーのになー、といつも思う」
と言っていた。
中学生の時、前に立っていた60代くらいの女性に席を譲ろうとしたら「失礼ね!私そんな歳じゃないわよ!」と怒鳴られたことがあったので、それ以来、それらしき人がいると黙って降りるフリとかして席を立つようにしてたのだが、先日、慶応大学の岡原教授が「それは一番最悪。コミュニケーションが欠如している。その人に『座りますか?』と聞けば良い事」というような話をしていて、そういえばキリンジの兄貴の方もそんなこと言ってたなぁと思い、さっそく実践したら思った以上にスムーズだった。
何を言いたいかよくわからないが、限定された場所での他人とのコミュニケーションは相手を見て判断したりめんどくさいけど必要なことなんじゃないかしら、という話。
余談だが、高校生の時、東西線で通学している途中、強烈な視線を感じて隣の車両を見るとまったく面識のない小柄で薄汚い格好だが非常に端正な顔をした中年の男がじーっと僕を見つめていた。その男はわざわざこっちの車両に移動してきて僕の前に立った。小柄な僕よりも小柄だった。間近で見るとその体型とアンバランスなくらい彫りが深いハンサムだった。
「あんた、ウサギみたいだ。よく言われるだろう?」
と突然彼は僕に言った。
意味が分からないがちょっとからかおうと思って、
「たまーに言われます、卯年なもんで」
と適当なことを言った。
すると、
「彼にちゃんとそれを報告しとくよ」
とその男は言ってまた隣の車両に戻って行った。
まったく意味が分からなかった。
一緒にいた友達が、
「誰?お前の叔父さん?」
と間抜けな事を言ったが無視した。
次の週、日曜日に映画を観に銀座線に乗ったら、隣の車両にその男がいた。
僕を見てニヤニヤしていた。
気持ち悪かった。
デヴィッド・リンチの映画みたいだ、と思った。
今考えると「ロスト・ハイウェイ」のミステリーマンっぽい。
オチはないです。
その後まったく会ってない。
HOTPARTICLE
地震の直後以来ほとんどブログを書いていなかった。
特に意味はないのだけど、なんとなく。
ツイッターやらつぶやきやらフェイスブックの方がお手軽だし、とかもあんま関係ないと思う。
結局、あれから変わったことをガツンとした実感のないまま、何もなかった顔して仕事したり遊んだりしている。
未曾有の事態なのにフワフワした日常をなんとなく受け入れて生きている。
そろそろそれらを描かないといけないな、
と思っていたところで、先日、劇団ミナモザの「HOTPARTICLE」という舞台を観に行った。
その舞台に出演している以前僕のイベントで司会をやっていただいた外山弥生さんからのお知らせだった。
ミナモザは以前から知っていてとても興味があったがまだ観た事がなかった。
主催の瀬戸山美咲さんは7年くらい前に知人が監督したあるインディーズ映画でご一緒させてもらった。彼女は主役を演じ、僕はスタッフではなく彼女を尋問しあの遠藤憲一さん(!)を捕まえる刑事役でなぜか出演していた(どうでも良いがほんと酷い演技だったと思う。もう人前で演じたりするのは2度とやらない)。
それ以降、瀬戸山さんとはばったり深夜のコンビニで会ったくらいで特に付き合いはなかった。彼女がやっているミナモザのチラシを何度かどこかで見てテーマ的に興味があるな、と思っていたけど観に行く機会がなくそのままだった。
なぜこんな事を書くかと言うと、つまり僕は瀬戸山さんの事をよく知らない、ということで、それがこの舞台を観る上で個人的により楽しめた要因でもあったと思う。
「HOTPARTICLE」はここ半年の瀬戸山さん自身の物語だ。
ドキュメンタリー舞台と言っても良い。
地震→原発が生活を変化させたことを根底に、彼女が地震発生時、彼氏と一緒にいて、でもその彼氏はその直後被災地出身の元カノとよりを戻したり、瀬戸山さんの10年ほど前に別れた後も友人として長く付き合っている元カレとの関係、友人だけど微妙な間柄の舞台役者との関係などもコミカルにみせながら彼女は「産めなくなる体」になる覚悟をして『原発』に会いに行きそれを舞台作家として作品を制作する、その過程を描いている。
瀬戸山さんはじめ実在の人物を別の役者がそれぞれ演じている再現ドキュメンタリー的な舞台。
こういう私小説的手法はいままでも映画や漫画でいくつか観てきたが、舞台もいくつかあるんだろうけどで僕は初めて観た。
舞台でこの手法をやるのが珍しいからやったのではない(と思う)。
だいたいにおいて作家が自分自身について描くものは僕はナルシズムがプンプンして反吐が出る事が多く好きではないものが多い。
自分自身を滑稽に描けば描くほどそのナルシズムが表に出る。
それがなんとも嫌いだった。
が、「HOTPARTICLE」はまったく思わなかった。
これしかなかったのだ。
この未曾有の事態を今、正確に描くには。
地震の後、僕のまわりでも被災地に撮影しにいったり、そのものを映画化したりする人が多く、来年はけっこうな数の作品が公開されると思う。
それは全然悪い事ではないと思うし、できる限り観に行きたいと思っている。
でも僕は被災地に行かなかったし撮影しようとも思わなかった(正確に言うと自分の意志ではなく仕事の関係で4ヶ月前に一度行った。そのことはまた別の機会に)。
僕のリアルは生活している東京にしかなかった。
自分自身のリアルを通して対峙しないとこのことは語れないと直感的に思った。
なので3.11当日からひっそりと撮影を開始した。
ちなみに5年前に公開した「Fragment」は9.11以降の変化を自分自身の見える実感を映画化しようと思って制作した映画で評価とかどうでも良くてやはりそういうカタチじゃないと僕は残したいと思わない。
そういうことで瀬戸山さんが「HOTPARTICLE」を制作したことがとてもシックリきたのだ。
勝手に解釈しているだけかもしれないけど。
後半、瀬戸山さんを演じる佐藤みゆきのほぼ独り舞台で、それは圧巻だった。
「こんな小さな、しかも東京の劇場で原発の事を声高に叫んでも意味がないんじゃないか?」
というような台詞があり、続けて
「でも、私はジョン・レノンになりたいんだ。バカみたいで恥ずかしいけど」
と言うのだが(すみません、正確ではないけどこういう意味合いでした)、そこまで突き抜けてのたうち回っていることを描いているのは清々しかった。
青さと熱さのギリギリの攻防。
勢いでやってしまったけど、これに意味があるのか?
こんなんで世界を変えれるのか?
ジョン・レノンになれるのか?
自問自答しながら、でもやらずにいられなかった。
それで良いと思う。
「原発」に会いに行くのもそれを舞台化することも。
僕は自分の上映後トークイベントなどで、
「なぜ社会的テーマの映画なのにあなた自身のメッセージを入れないのか?」
といった質問を以前よく受けることがあり、それに対して答えていたのが、
「入れない事自体がメッセージと考えていて、もちろん自分の意見があるけど、それを描くのは自分のスタイルではない。それを入れたところで世界が変わるとも思えないし。ジョン・レノンでさえ世界を変えれなかったんだから」
というようなことだった。
今思うと、クールぶって自意識過剰なヤツだなーと思う(ジョン・レノンって言ってる時点で意識してるんじゃねーか!)。
そんなことはすっかり忘れていたが、
ジョン・レノンになりたい!
と素直にのたうち回る瀬戸山さんを観てドキッとした。
ということでうまくまとめられたかわからないが、とにかくここ数年で一番グッときた舞台だった。
真っすぐだし意味があるし、なによりエンターテイメントだった。
これを面白いということを不謹慎とか言うヤツ、お前が不謹慎だ!
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